「日本の近代史を勉強する」 その2



昨年11月の続きです。後半になります。

自分が何者か?という疑問に良いヒントが得られると思います。

ヨーロッパの書物に対して、日本人が他のアジアの国の人と違い、独特に考えたことの一つに,
「書物を日本語に翻訳した」がある.

日本が開国した頃、ヨーロッパで発展した学問は,ドイツ語,フランス語,オランダ語,そして
英語の原著のままアジア諸国に入っていた。アジアのほとんどの国は原語を読める人がけが知識
を独占したが、日本は違う.古くは仏典を日本語に訳して理解したこともあるが,チョンマゲを
結った彼らは他の国とはまったく異質な方法を採用し,原著を日本語に訳したのである.

つまり「外国の書物を日本語に訳す」というのはアジアでは特別な考えだった。それには深い文
化的背景がある.日本人が一部の人を除いて、外国語の修練が不得意というような理由ではなく
,日本で見かけ上は厳しそうだった士農工商のような「階級制、身分制」が他の国のものとは格
段に異なっていたからである。

つまり、原著の翻訳は日本国民の「平等」に関係している.
伝えられている長崎海軍伝習所の武士の勉強の有様によると,日本人の語学はまあまあであった
が,カッテンディーケ卿が榎本武揚の行状を描写したごとく,「江戸において重い役割を演じて
いるような家柄の人が,2年来,一介の火夫,鍛冶工および機関部員として働いている」という
特長があった.江戸時代、士農工商という見かけの厳しい階級とはうらはらに,その本質におい
て階級概念を持たなかった.大名,士農工商の身分区分は、「臨時の役職」のようなもので、い
わゆるヨーロッパのように人間の価値をそのまま示す「身分」ではなかった。

日本人の話にしばしば登場する,太閤秀吉なる人物は木下藤吉郎という下っ端武士であり,その
人物が位人臣を極め,太閤となると,皆,こぞって太閤の威光にひれ伏す.これを見てヨーロッ
パ人は日本人が真に太閤秀吉を奉っておると錯覚するが,太閤自身もまた日本人も秀吉の繁栄は
「浮き世の泡沫(うたかた)」ということが分かっている。たしかに「太閤」は太閤という高い
地位であるには変わらないが、それでも太閤様はなにも自分たちとは違わぬと思っていた.そし
て,それは秀吉の出生がたまたま卑しいからではなく,その「出」がいかに高貴であっても、天
皇陛下以外の日本人はみな同じなのだ.太閤という位は所詮、天皇陛下から「臨時」に与えられ
た浮き世の最高位に過ぎない。それではまったく尊敬されないので、秀吉は神となって豊国神社
に祭られている。

中国では王朝をたてると、どんな下賤の身であっても「天子」と名乗り、その上に誰もいない。
庶民が天皇になれる、それが中国でも、ロシアでも、そしてヨーロッパですら同じだった。

江戸幕府は大名に参勤交代を強いたから,大名が街道を練り歩く時には,仰々しい仕立ての行列
と街道の両側に這いうずくまる百姓が欠かせない風景であった.百姓のそういう格好を見て,外
国人という外国人は皆,日本には厳しい階級制が厳に存在すると錯覚するし,それはそれで妥当
な見方である.

しかし,実態は違う.そこに日本の社会の特長と歴史がある.土下座している百姓は単に「行列
が行きすぎる」のを待っているだけで大名に何らの偉さをちっとも感じていないのである.「こ
こは頭を下げておくか」というのが日本人独特の感覚であった.つまり日本には「神代の時代」
から一貫して、{神―天皇}、と直結した「特別な存在」があり、天皇の存在によって、日本に
は完全な平等社会が生まれていた.どんな「高貴」な人でもその人と天皇との差は画然としてい
て、「高貴な人」と「庶民」との差はとても小さかった.

専門書の話に戻ると、原著を翻訳するということは、外国語ができなくてもその中身を知ることが
出来るということを意味していて特権階級が知識を専有しようとする場合にはそれは起こらない。
考えてみると、五稜郭で榎本武揚らが敗北を喫したのは理の当然である.スームビング号の江戸
回航はそれが日本人だけの航海だったことを驚くばかりではこの出来事の深さを充分に理解して
おるとは言えない.じつは,この回航は当時の日本の標準をはるかに超えていた.軍事という面
でも,当時の科学,社会のレベルから見てもとてつもなく飛び離れていたのである.従って,よ
たよたと江戸に進むスームビング号を襲って我が者にしようとする強者も出ようがなく,この浮
世離れした戦艦は遠巻きにして見ていただけだった.

榎本艦隊が幕府の崩壊した後も存在し,かつ函館で新政権と本格的な戦いを挑むことができたの
は,その陸軍ではなく海軍力であった。しかし,不運なことに榎本武揚は戦艦・開陽丸を座礁で
失った。だから,地上に降りた榎本軍は羽をもがれたタカと同じで、それはすでに「技術の後ろ
盾」を失っていたのである.

ところで、江戸末期、日本には蒸気機関を作る技術はあったものの、実際の戦艦を操舵するとい
うことになると、まだまだだった。永井玄蕃頭は海軍伝習所における軍艦スームビング号の訓練
を担当してその経験から、軍艦を実戦に使用するためには単にその操舵ができると言うことでは
なく、絶え間なく起こる破損や故障に対処しなければならないことを知った。江戸時代の人が
「機械」を扱うということはほとんど無かったのだから、海軍伝習所の武士たちが、機械の使用
方法を学んでも、「機械を動かすとはどういうことか」ということを直ちに理解できなかったと
してもそれは不思議な事ではない。さらに、独力で、飽の浦に機械工場の建設に着手してみると、
大きな困難が待ちかまえていた。オランダから主要な機械は運んできたものの、日本には工具や
補助的な器具はほとんどない。なにか必要なものがあるとオランダまで取りに行かなければなら
ないのだから、とんでもなく非能率であった。それにオランダ人と幕府の官吏との関係もままな
らない。21世紀になった現在でも発展途上国の「発展」を阻害している一つの原因として「産
業の裾野」の問題がある。大工場や研究所があっても、日常的な補修道具や消耗品がなければ現
実には運転や研究ができない。日本には無数の中小企業がそれを担ってきたが、中小企業の育た
ない発展途上国では、「細かいこと」ができないのが現実的な業務の支障になっているのである.

そんな状態で進んだ日本初の重工業であったが、それでもやらないよりましで、安政6年には観
光丸のボイラーの取り替え工事ができるまでになっていた。造船所を訪れたイギリスの軍医レニ
ーは、こう言っている。「八月七日長崎の日本蒸気工場を見学。これはオランダ人の管理下にあ
り、機械類は総てアムステルダム製であった。所内の自由見学を許された我々はすみずみまで見
て回ったが、なかなかの広さであった。そして、この世界の果てに、日本の労働者が船舶用蒸気
機関の製造に関する種々の仕事に従事しているありさまをまのあたりに見たことは確かに驚異で
あった。」西洋の文明が届くはずもない、この「世界の果て」にできた日本最初の近代的造船所
は維新後、長崎造船所と改称、やがて三菱のドル箱に一つになり、太平洋戦争では世界最大の軍
艦「武蔵」を生むのである。

 このように日本が他のアジア諸国と違って、ヨーロッパの植民地にならなかったのは、地理的
に極東だったこと、日本人の努力と技術力だが、それだけではない。もちろん明治政府の判断、
そしてアジア諸国に起こった反乱も日本の独立に関係している.それが、インドに起こったセポ
イの乱、と中国の太平天国の乱である。主としてイギリスの東南アジア征服はアヘン戦争で見ら
れるようにかなり強引で身勝手であった。そのため、征服された民族からは反撃の運動が起こり、
それがセポイ、太平天国の乱となり、征服者のイギリスを悩ませた。この経験をしたヨーロッパ
は日本に対してすこし緩やかな態度をとり、さらに、日本にはさほど大きな資源が無かったこと
も、日本が植民地にならなかったことの一因となっている。幸運が続いたのだ。

ただ、軍事力を決める工学的基盤、社会的基盤という点では彼我の間に大きな溝があったという
事実は認識しておく必要がある。嘉永時代、吉田松蔭が苦しみに藻掻いていた頃、ヨーロッパは
ベッセマーの転炉が出現して巨大な製鋼工場が建設されていたが、萩では長崎から手に入れた図
面をもとに、数10年も遅れている技術、反射炉の建設を急いでいたという有様だったのだ。
技術力、規模、いずれにおいてもとても比較になるものではない。萩の反射炉が実際にどの程度
使用されたか残された装置を見ると疑問に感じたが、この反射炉が使われても使われなくても、
所詮役には立たなかった。ただ、西洋工学をとにかく早く取り入れて日本を救おうとした意志の
現れと受け止めるのが正解だろう。それよりも、中世には鉄の輸出地帯であった日本の中国地方
の製鉄業がその後、なんら発展も拡大せず、時代の波の中に消えてしまい、日本のために活躍す
べき時には何の役にも立たなかった方が、日本の工学と文化を考える上で重要だ。

科学の発展は軍事と密接に関係する。確かに、多くの工学や科学は軍事に使用され、軍事に使用
されることによって伸びた。火薬は土木工事に用いられるより多く殺戮に使用された。鉄は生活
程度もあげたが、軍艦大砲に使用され、その結果「鉄は国家なり」と豪語された。鉄の軍艦に乗
り、鉄の塊の大砲から鉄の玉が発射され、柔らかい人間の皮膚を破壊する。しかし、工学が軍事
につながるのは万国共通ではない。日本の多くの工学は軍事には結びつかずにむしろ「芸術」に
流れていった.日本刀は優れた鍛造技術で作られ、日本刀の鍔は手を守る部分品であるが、日本
刀はその機能を高めるより、芸術品として珍重され、鍔は複雑な模様を描いてさらにその芸術性
を高める。国一国の支配より茶器一つという香り高い日本文化が工学の進歩を妨げたのである。

工学の文化は日本文化の至る所に見られる。世界初の大型木造住宅を造り、世界一大きな鋳造仏
を作った奈良の工学はその後、更に大きな建造物、更に大型の鋳造品を作って軍事に役立てよう
とはしなかった。日本の建築物はむしろ次第に平べったくなり、優雅な建造物へと変身する。そ
して最後は茶の湯で見られるように「庵一つ」へと還元していく。奈良の大仏殿を作った建築工
学が再び軍事に使用されたのは、織田信長の安土城をあげることができる程度である。鋳造品は
軍事にほとんど使用されなかった。

工学が人類の福祉のためにあるのなら、工学が戦争につながる西洋文明より、工学が文化に昇華
する日本文明の方が優れているが、江戸末期のような戦闘の時代には日本古来の「芸術化された
技術」は役に立たなかったのである。平和を愛する人間は軍隊に負ける。文化を愛する民族は軍
事を大切にする野蛮人(白人)に敗れる.

 明治元年3月13日、勝海舟が西郷隆盛との会見に臨むために薩摩邸に向かうとき、すでに江
戸は官軍の侵攻に対して防御の策を整えていた。その基本は江戸の町を焦土にすることと、市街
地を利用したゲリラの組み合わせだったし、海軍は幕府軍が官軍勝っていたので、将軍は海の方
へ逃れる予定だった。しかし、勝海舟の頭にはスーヌビング号の江戸回航が日本の将来に何をも
たらすかを正確に理解していたのだろう。また咸臨丸でサンフランシスコに渡米するときにも、
ジョン万次郎、福沢諭吉などと一緒だったことが、彼の判断をさらに強固にしたことは間違いな
い。 旧幕府を支援するフランス、新政府に肩入れするイギリスの間で、仮に紛争が長引けば、
西日本はイギリス干渉のもとでの新政府、東北にはフランスが利権を握った徳川幕府ができて、
日本は東西に分裂していただろう.

 歴史というのは面白いものだ。260年つづいた徳川幕府がまさにその命運を終わろうとして
いたとき、勝海舟のような人材がでて日本の独立を守った。 有名な西郷隆盛と勝海舟の会談は
ある意味で当然の帰結だったのかも知れない。 技術は奴隷に過ぎず、人の判断はほぼ大脳皮質
で行われが、技術がその人の大脳皮質の判断を左右することも確かである.それはやがて明治の
元勲たちの判断にもなり、ある時には鹿鳴館に、ある時には小村寿太郎の判断となって、日本の繁
栄の道を開いたのだった。

 勝海舟は明治政府では役職にも就かなかった。自分は江戸幕府に所属しているという意識が強
かったのだろう.そして、江戸城無血開城まで終始、うまくいかなかった主君、徳川慶喜のため
に明治になっても奔走し、彼の赦免と徳川慶喜家の創設に貢献している.一見して能吏であり冷
たい感じの勝海舟だが、彼は彼なりの人生だった。

 ところで、第一章を終わりに当たって、尖閣諸島の事件で問題になった「領土」というのを少
しずつ理解していきたいと思う. 日本で「日本の領土」というのを最初に測ったのは有名な江
戸時代の「伊能忠敬」である。忠敬は、日本全図を作るため各地を歩いたのだが、まずは東北か
ら、今の北海道にあたる蝦夷の南と東海岸、そして本州、四国、九州と、ほぼ日本全土の測量を
続けた。  離島にも渡って、九州では対馬や長崎の五島、九州に近い天草、種子島、屋久島、
そして瀬戸内海の小豆島や淡路島、日本海の佐渡島を伊能忠敬はコツコツと回って測量した.
実にたいしたものだ。ただ、伊豆七島は忠敬があまりに年をとったので、若い隊員だけで測量し
ている.

 ところで、当時、北海道は江戸幕府の支配が及んでいなかったので、忠敬も函館あたりと南の方
だけ測量している.だから忠敬の地図には北海道はハッキリしないし、同じように沖縄、台湾も
明確ではない。北海道は伊能忠敬から少し後に間宮林蔵が測定して完結するのだが、実は北海道
にはすでにアイヌ民族が住んでいて、その土地はアイヌ人のものだったのだ。その意味では日本
人(和人)とアイヌ人殿関係はやはり「軍事力の強かった和人が、平和を愛したアイヌ人を圧迫
した」という歴史だった.

 今、イギリスやアメリカが「昔やった悪いことは知らないよ」と 強気一点張りであることに日
本人としては腹が立つことがあるが、それは日本人がアイヌ人にしたことに似ていると言うこと
も私たちは頭に入れておかなければならないだろう. それはともかく、江戸時代、伊能忠敬が
後半生を捧げて作った日本地図には本当に敬意を払いたい。「領土」とかなんとか言っても、誰か
が国土を測量してくれないことにはどうにもならないからだ。

 江戸のおわりから明治のはじめにかけての日本の技術、政治、そして最期に少し伊能忠敬の測量
について触れた。なぜ、日本だけがヨーロッパやアメリカなどの白人の国家が世界中を征服し植
民地にしていく時に、それを免れたのか、歴史は常にある必然性を持っていることを考えると、日
本が植民地にならなかったことには、いくつかの理由があると私は考える。

 日本の独立をハッキリさせた日露戦争は今からたった100年ほど前のことであり、すでに忘
却の彼方にあるが、人類の歴史から見ると本当に最近のことである。 だから、私たちの精神の
中に、また日本社会の中に、日露戦争当時の心、仕組みが色濃く残っているのであり、今後の日本
を考える時にも、中国などとの国際関係を論じるときにも、子供を育てる際にもとても重要なこと
であり、選挙権をもつ大人の1人としてないがしろにできない教養の一つではないかと思う.

 このシリーズは「現代の日本人が知らなければならない近代日本の歴史」をしっかり勉強する
ために決して急がずに少しずつ解明していきたいと思う。

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先生のサイトもぜひ訪れてみてください。

尖閣諸島事件を機に日本の近代史を勉強する 
武田邦彦 (中部大学)
http://takedanet.com/

2011年1月1日

平川丈二は最近こんなことを考えている!
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