亡き父の思い出

先月29日朝、熊本に住む父が亡くなりました。85歳でした。

同日朝電話で連絡があり、午前中会社で可能な限りの仕事をこなし、午後出かける
準備をして、その夜熊本へ家族4人で出かけました。道中、兄嫁と連絡を取り葬式の
時間を確認し、その時刻に間に合うように移動しました。

葬式の2時間ほど前に実家に到着したので、直に着替えなどの支度をし、斎場へ移動
しました。急な話だったため、親戚などの斎場への到着はほとんどぎりぎりでしたが、
無事に済ますことができ、焼き場へ移動。夕方には実家へ戻りました。

夕食は、兄弟とその家族、母方の親戚と食べました。弟が昔の父の写真を出してきて
今の自分より若い父の姿を写真で見ました。驚いたのは、昭和40年の写真がカラーだ
った事です。商売に成功して金回りが良かった印象です。実家を新築したときの写真
では、若い母とのツーショットも印象的でした。弟が中学の野球大会で横浜スタジア
ムで試合をしたときのスナップもありました。愛車は、アメ車のリンカーンで、狭い
路地を抜けるのが、大変そうでした。晩年は、6人の孫にも恵まれ、昨年曾孫もひとり
生まれて大変幸運な人生だったと思います。

仕事などで忙しく、あまり一緒の時間を過ごした記憶はありませんが、趣味の狩猟へ
僕を連れて行くことが幾度かあり、恐るべき山奥の旅館に二人で泊まった記憶があり
ます。多分小学校低学年だったと思いますが、夜明け前の雉撃ちは、子供心に強烈な
思い出として残っています。父が僕に話をするときは、大抵晩酌の後で大体同じ事を
繰り返し話していました。子供に伝えたい大切なことなんですが、当時の僕は、すっ
かり聞き飽きており「また、始まった」くらいにしか思っていませんでした。
同じようなことを自分が、息子に話している現実を鑑みると遺伝子の成せる業でしょ
うか?(笑)

仕事のために学校の運動会なども親が不在なことも多く、当時家族で重箱のお弁当を
食べるのが普通だった時代でもあり、弁当の時間は体育の先生の部屋で同様の生徒と
一緒に食べた事を思い出しました。そういう負い目もあるのか?飲んで帰ってくると
お土産の冷めた「餃子の折詰」を片手に僕たち兄弟を夜中に叩き起こし、餃子を食べ
させました。未だに冷たい餃子は苦手です。(爆)酒臭い息を吐きながら子供たちに
チューして眠りに着くと平和な夜に戻ります。

僕が生まれ育った熊本市中央区本山町は、昭和30年代貧乏な人も多くそのなかでは、
非常に経済的に恵まれていたと思います。今は、綺麗に撤去されて公園みたいに整備
されていますが、本山町の白川沿いは、同和地区で酷い暮らしの人々を見て育ったの
で、子供心にその有難味を理解していました。また、ギターを弾きたいとお願いした
ら、アリアのフォークギターを買ってくれたし、高校の頃アメリカの西海岸へ旅行に
行った時は、良いギターがあったら買ってこいと$1000ドル(当時のレートで約20万
円)のトラベラーチェックをくれました。(そのとき買ったギブソン・レスポールJr
'59とSGスタンダード'76は、もう手元にありませんが、購入価格のほぼ倍の値段で売
り飛ばしています)

変に自信があった高校受験も失敗し私立の高校へ進学するのも、九州の国立大学に合
格しておきながら、就職が有利で都会にある私立の大学への進学を「僕の意思を尊重
する」として、許してくれた父には、今は感謝しかありません。

振り返って自分を省みると「愚かな子供(ガキ)」にしか思えません。特に高校受験
勉強をほとんど適当にして、こっそりギターばかり弾いていたのに近所(本山町から
北区室園町へ引っ越してました)の熊本ではトップクラスの進学校(くりーむしちゅ
ーの出身校で有名!)を受験する神経が分りません。(爆)本来なら合格圏内だった
県立第二高校を受験すべきだったと思います。もしくは、もっと真剣に勉強すべきで
した。当時「まじで勉強する」のが格好悪いと思っていたバカだったんです。

ともあれ、大学から東京で暮らすようになり、帰省の時くらいしか会わなくなった事
もあり、さらに父との関係は薄くなって行ったと思います。母は、父の女性問題(爆)
で苦労したようですが、父の商売の才能は認めており、特に目利きの能力は当時九州
ではトップ3に入ると話していました。どうも僕の兄弟の誰もその才能を受け継いで
いないようですが・・・。

商売から引退して、牧場を買って牛や馬を育てたりしていましたが、結局それまでの
蓄えを失うだけだったようです。趣味の側面も大きかったようですが、損失が大きく
なる前に牧場なども手放したそうです。それまで晩酌の時に「遺産」がどうのとか、
兄弟で揉めるなとか話をしていたのが、いつのまにかそういう話もしなくなりました。
どうもそのあたりも、負い目に感じていた節がありますが、僕の兄弟全員不自由なく
育ててもらっただけでも感謝していると言う事が、いまいち分っていなかった気がし
ます。

全盛期には、返還後直の沖縄や台湾、アメリカなどに商売で飛び回っていた事を思え
ば、晩年の商売の規模は不本意だったんだと思います。流石に無理して借金を作らな
い賢いところは、大変有難いことだと思います。

父には、二つ年下の同業者の弟(僕にとっては叔父)がいて、この叔父が非常に評判
が悪く、商売の継続に支障を来たす程の問題があったようですが、取引先が父の顔を
立ててなんとか商売ができていたそうです。複数の方から同様の話を聞いたことがあ
ります。父が儲けたお金を人のために使った事がいろいろと作用していたようです。
僕自身、父の息子ということでいろんなところでお世話して頂いた経験があります。
その度に、父の話を聞かされる訳ですが、他人の話の方が信憑性があり(爆)熊本を
離れてからの方が、父の偉大さが分るようになったと思います。

社会人になると帰省した際に父は、僕の事を褒めてくれるようになりました。本当に
嬉しかったんですが、照れくさくて「あなたのおかげです」って言えませんでした。
何事も失って初めて気づく有難味があります。父の死で感謝の気持ちを伝える機会を
失ってしまいました。人生って多分そういうもののような気もします。その分自分の
子供たちへ愛情を注ぐ事が人生の流れであると思います。明日から僕も頑張ろう!

2014年10月1日

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